駅長のブログ

駅長さんのブログです。ナイアガラのホットな情報をお届けします。

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中学卒業と家業

ウチは父親が魚屋さんだったので、中学卒業後は早朝に看板を届けて代金をもらい、
そのまま自転車で築地に行って魚を一抱え仕入れて来ました。
それで父と私で魚をさばいたりとか、切り身を並べ、何とか魚屋らしくなってきました。
昭和26年くらいになると戦後も落ち着いてきましたので、結構マグロが売れましたね。
今ほど一般にマグロが流通していなかったので、祐天寺ではウチしか売っていませんでした。
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一番上の兄は戦争から帰ってきましたが、皮膚病がひどく寝たり起きたりしていましたし、
二番目の兄は進駐軍の通訳が縁でアメリカの大学に留学に行きましたので、手伝いは相変わらず僕の仕事でした。
ところが、ハタチ目前になったある時に大事件「アメリカの水爆実験のためマグロ船第五福竜丸が被爆」が発生して、
マグロがばったり売れなくなってしまいました。
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「もう魚屋はだめだ・・・勉強して、みんなみたいに靴履いて、カバン持って背広来て働きに出たい…」
そう思い、 父親にその思いを打ち明けました。
けど、「ダメ」とは言いませんでした。 「この魚屋をやってってくれよ」って思いはあっただろうと思いますが。
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生活するためになんでもやった中学時代

年老いた父親は鶏の世話、母親は買い出し屋
(買い出しできない人の代わりに買いに行き、分け前をもらう代行。
配給はあてにならず、買い出しは生きるために必要でした)
そんな状態では暮らしていけません。
中学校に入学しても、生活する男手は自分しかおらず、
学校なんか行ってられない状態でした。
内藤さん1

母親は勉強しろって尻を叩きましたが、私は学校より親の手足になって助けたい。
出来たばかりの中学には中目黒・鷹番・烏森・五本木・油面から、
沢山の生徒が入学しました。疎開で苛めぬかれたから、気が重い。
知らないやつばかりの学校なんて…楽しくないに決まってる。
本当は行きたくない・・・のが本音でした。

看板屋のアルバイト
poi.jpg2010041223310000_jpg_200px.png
印刷した布を脚が付いた木枠に貼り付けた「捨て看板」というのがあります。
ハリガネとペンチで電柱に巻きつけるんです。
最近は見る事が少なくなった木枠付の捨て看板ですが、当時は木枠が売れたんです。
早朝、登校前に中目黒・恵比寿を回って「捨て看板」を持って帰る。
その足で登校しました。給食を食べられるからです。
米軍のララ物資で給食が開始されましたが、
脱脂粉乳とかコッペパン程度で給食らしいものではなかったですね。

朝早いから、午後は眠くて授業中に居眠りして先生に怒られる・・・友達に笑われる。
そんな毎日でした。
下校すると、中山や鴨居に米・野菜を買いに行く。
たまに、警察の「ヤミ米の取り締まり」がありましたが、
子供だと見て見ぬふりをしてくれるような情がありましたね。
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夕方、日の暮れるまで、看板の布をはがして木枠だけにする。
それを親方に届ける。木枠を売ったお金を母に渡す。これが日課でした。

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兄貴たちは戦争から長く帰らなかった

息子に更新を任せていますので、3か月も更新できませんでした。

一番上の兄貴は大正12年の生まれ、二番目の兄貴は大正15年の生まれで、
二人とも出征していました。(昨年一番上の兄は亡くなりました)

一番上の兄貴はビルマ南方戦線でしたので、帰還船の手配が遅れ、
昭和22年5月頃にやっと帰ってきました。
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二番目の兄は終戦時九十九里で守備隊をしておりましたが、
英語が堪能でしたので占領軍の通訳をさせられていましたので、
昭和22年暮れくらいまでは帰れませんでした。

父も明治22年の生まれで年齢的に重労働はできない。
そんなわけで、生活のため猫の手も借りたい戦後のどさくさに、
我が家では男手と言えば私しかいなかったのです。

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うどん粉とサツマイモのカレー

小さいころは渋谷の食堂でカレーライスが20~30銭くらいでしたかね。
うちは貧乏でしたから、食堂なんて行ったことはありません。
たまに母の作ってくれたカレーライスは大のごちそうでした。
サツマイモと菜っ葉の入った煮干しの汁にカレーの元と小麦粉を溶いて作ってくれたんです。
肉はそぼろのようなものか魚が少し入っていましたかね。
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戦争が激しくなると、配給量が減っていきました。
昭和16~7年くらいになるにつれて、ご飯は無くなって、カレー汁みたいになりました。
疎開するころにはカレーの元は手に入らなくなり、米も時々食べられるくらいで、
カボチャ、大根、雑穀や芋のつるを食べることもあったと思います。

次回は「兄貴たちは戦争から長く帰らなかった」です

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買い出し列車と旧型客車のシート

朝、自転車で市場に行って仕入れた魚を持って帰って
そのまま中学校に行って授業を受けました。
まだ給食はなかったし、授業の合間はグランドの瓦礫やガラス拾いで、
空腹との戦いでした。
そして学校が終わると、母にその日に売れた魚の代金を持たされて、
平日は菊名とか大倉山、日曜日は姉と一緒に八王子まで買出しに行きました。
そのころは横浜線も椅子の外されたゲタ電、八高線は混合列車ですし詰めでした。
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今、私の店にある座席は、そのころの生き証人といえるオハ61系客車のものです。
元は大正時代の木造客車の車体を昭和26年に鋼製のものに改造した際、取り壊される車体部分から、座席や荷棚の金具など、再利用可能な部品が極力流用されたのです。
背もたれは木製で、いたるところに深い傷があります。戦後の復員列車、買出し列車の時代の傷です。
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昭和62年、国鉄の長町客車区に2両だけ残っていた61系客車解体の報を聞き、
息子と出向いて手に入れたものです。


次回は「うどん粉とサツマイモのカレー」です。

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