駅長のブログ

駅長さんのブログです。ナイアガラのホットな情報をお届けします。

2011年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2011年07月

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うどん粉とサツマイモのカレー

小さいころは渋谷の食堂でカレーライスが20~30銭くらいでしたかね。
うちは貧乏でしたから、食堂なんて行ったことはありません。
たまに母の作ってくれたカレーライスは大のごちそうでした。
サツマイモと菜っ葉の入った煮干しの汁にカレーの元と小麦粉を溶いて作ってくれたんです。
肉はそぼろのようなものか魚が少し入っていましたかね。
b1aef16e_240.jpg

戦争が激しくなると、配給量が減っていきました。
昭和16~7年くらいになるにつれて、ご飯は無くなって、カレー汁みたいになりました。
疎開するころにはカレーの元は手に入らなくなり、米も時々食べられるくらいで、
カボチャ、大根、雑穀や芋のつるを食べることもあったと思います。

次回は「兄貴たちは戦争から長く帰らなかった」です
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買い出し列車と旧型客車のシート

朝、自転車で市場に行って仕入れた魚を持って帰って
そのまま中学校に行って授業を受けました。
まだ給食はなかったし、授業の合間はグランドの瓦礫やガラス拾いで、
空腹との戦いでした。
そして学校が終わると、母にその日に売れた魚の代金を持たされて、
平日は菊名とか大倉山、日曜日は姉と一緒に八王子まで買出しに行きました。
そのころは横浜線も椅子の外されたゲタ電、八高線は混合列車ですし詰めでした。
15.jpg

今、私の店にある座席は、そのころの生き証人といえるオハ61系客車のものです。
元は大正時代の木造客車の車体を昭和26年に鋼製のものに改造した際、取り壊される車体部分から、座席や荷棚の金具など、再利用可能な部品が極力流用されたのです。
背もたれは木製で、いたるところに深い傷があります。戦後の復員列車、買出し列車の時代の傷です。
P4020131_convert_20110611000712.jpg

昭和62年、国鉄の長町客車区に2両だけ残っていた61系客車解体の報を聞き、
息子と出向いて手に入れたものです。


次回は「うどん粉とサツマイモのカレー」です。

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つらい疎開時代を支えたのは夜汽車の汽笛

クラスで疎開児童は4人だけ。しかも他3人は関西からの子供でした。
富山の方言は関西弁と北陸弁が混じっていて全然解らないんです。

しかも、もともと口下手だったし喘息持ちで体育も出来ない。
クラスでも仲間はずれ。よそ者って扱いでした。

田舎って大人はみんな優しいんだけど、子供は冷たかったですね。

ばあちゃんの家じゃ肩身が狭くて、つらくても泣き事は言えなかったですから。
「あの汽車に乗れば両親がいて友達がいる目黒に帰れる」と、
夜寝床で夜汽車の汽笛を聞きながら何度そう思ったものです。
つらい疎開時代を乗り越えられたのは汽車のお蔭ですね。

友達が出来なかったし、二年少しの間しかいなかったせいか、
富山のクラス会には呼ばれたこともありませんね。

そして終戦、昭和21年の半ば頃には目黒に戻る事が出来ました。
小学校も被災してなかったから、また懐かしい仲間に再会できて嬉しかったですね。
でも、何人かの同級生そのまま戻ることはなかったですが。
110606_1101~01

昭和22年の卒業時の写真です。上目黒国民学校です。

昭和23年中学に入りました。
新制中学として焼け野原だった役場の近くに学校ができたんです。
でも、二人の兄貴は抑留されて戦争から帰って来ない。
親父は明治の初めの生まれで60超えていたし、母親は3歳の末っ子を抱えていたから、
生きて行くために学校行くのもそこそこに、早朝から魚河岸に魚の仕入れ、
放課後は近くの大倉山とか菊名の農家に買い出しに行っていました。

次回は「買い出し列車と旧型客車のシート」です。

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