駅長のブログ

駅長さんのブログです。ナイアガラのホットな情報をお届けします。

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つらい疎開時代を支えたのは夜汽車の汽笛

クラスで疎開児童は4人だけ。しかも他3人は関西からの子供でした。
富山の方言は関西弁と北陸弁が混じっていて全然解らないんです。

しかも、もともと口下手だったし喘息持ちで体育も出来ない。
クラスでも仲間はずれ。よそ者って扱いでした。

田舎って大人はみんな優しいんだけど、子供は冷たかったですね。

ばあちゃんの家じゃ肩身が狭くて、つらくても泣き事は言えなかったですから。
「あの汽車に乗れば両親がいて友達がいる目黒に帰れる」と、
夜寝床で夜汽車の汽笛を聞きながら何度そう思ったものです。
つらい疎開時代を乗り越えられたのは汽車のお蔭ですね。

友達が出来なかったし、二年少しの間しかいなかったせいか、
富山のクラス会には呼ばれたこともありませんね。

そして終戦、昭和21年の半ば頃には目黒に戻る事が出来ました。
小学校も被災してなかったから、また懐かしい仲間に再会できて嬉しかったですね。
でも、何人かの同級生そのまま戻ることはなかったですが。
110606_1101~01

昭和22年の卒業時の写真です。上目黒国民学校です。

昭和23年中学に入りました。
新制中学として焼け野原だった役場の近くに学校ができたんです。
でも、二人の兄貴は抑留されて戦争から帰って来ない。
親父は明治の初めの生まれで60超えていたし、母親は3歳の末っ子を抱えていたから、
生きて行くために学校行くのもそこそこに、早朝から魚河岸に魚の仕入れ、
放課後は近くの大倉山とか菊名の農家に買い出しに行っていました。

次回は「買い出し列車と旧型客車のシート」です。

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駅長のルーツ1 私は疎開世代

いつもナイアガラをご利用いただきまして誠にありがとうございます。
ブログの模様替えをしました。できる限り更新していきますが、パソコンができないので息子に任せているために不定期になることをご理解願います。
ekichou.jpg

祐天寺で生まれ育った私は戦前からここに暮らしています。私の人生の中で唯一祐天寺を離れていたのが戦争中でした。
太平洋戦争の末期、アメリカ軍B29による空襲が激しくなる中で、大都市の児童を守るために国は縁故疎開か強制疎開をさせたんです。兄貴たちはみな出征してしまったし、両親は家を守るために祐天寺に残ったんです。
Evacuation_of_Schoolchildren_in_Japan_convert_20110413114022.jpg

それで、姉と東京から富山のおばあちゃんの家に疎開に行ったのです。汽車に乗ってね。
その疎開先の小学校で先生に紹介されてるその場から笑われちゃったんです。
富山県には2月末に行ったんだけど、とても寒い。だから、学校にモンペを履いて行ったのです。
そしたら、同級生たちから「女みたいだー」なんて、「めろ」(女のこと)皆にからかわれちゃって。
毎日毎日からかわれてばかりで、学校が嫌になってたんです。
それで、放課後は誰とも遊ばなかった。好きな汽車を見に駅まで行ってました。
「東京に帰りたいよぉ…お母さん…」「こっちに行けば東京だなぁ…」…って考えてました。
駅からずっと線路の先を眺めていたんですね。そうすると、駅員さんと仲良くなって切符をもらったり
バッジとかボタンをもらったりしていました…。

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